◼︎『つゆのひとしずく』と仲田薫子さん

そもそものはじまりは、『つゆのひとしずく』というDVDだった。これは、山陰でひとりアマチュアリズムに徹して写真を撮り続けた植田正治という写真家の写真に、俳優の佐野史郎が小泉八雲の文章を選びあわせ、短編映画のような作品に仕立て上げたものだ。
佐野史郎と植田正治のつながりは2004年に植田正治写真美術館の企画展「松江」のトークゲストに松江出身の佐野史郎が呼ばれ、その時の対談の相手が植田正治のお孫さんで植田正治写真美術館のスタッフでもあった仲田薫子さんだったことから始まる。
少しして、ショートフィルムの企画を依頼された佐野史郎が仲田薫子さんに、植田正治の写真を使って撮りたいと相談したところ、快諾してくださったということから『つゆのひとしずく』の企画はスタートした。
2006年8月1日リリースの『つゆのひとしずく』に合わせて原宿のアートスペース「ナディッフ」のギャラリーで佐野史郎と撮影現場に密着していた写真家の安珠さんによる「つゆの“もう”ひとしずく」展(2006年7月21日~9月3日)が開かれ、 この展示のサポートに駆り出されたのが斯くいう私だった。これは佐野史郎の公式サイト「橘井堂」を制作・運営しているからでもあり、佐野くんとは高校時代からの友人で、いっしょにWIND CITYというバンドを組んだり、写真や芸術全般に関しておしなべて共通の認識を持っていたからだろう。

この仕事で佐野くんに仲田薫子さんを紹介されたが、なんと三人ともに美学校という異端の美術学校に通っていたことが判明。薫子さんは高校の下級生で美術部にでもいたような、とても馴染みがある印象だった。しかもこちらが松江(島根県)、薫子さんは境港(鳥取県だが古代出雲では同じ出雲文化圏)と同郷のよしみもあり、すぐに打ち解けることができた。
そして、その薫子さんが「塩谷定好って知ってます?』と植田正治さんと同郷の鳥取写真界の先達の写真を見せてくれた。「いや、知らないですね」と答えたけれども、そのぼんやりとした写真にはなんだか見覚えがあったのだ。「塩谷さんは、鳥取の赤崎の人で、この写真がアサヒカメラの創刊号で1等(第1回月例コンテスト)をとって有名になったんですよ」と教えてもらった。
しかし、僕はなんとも不思議な気持ちになっていた。鳥取の人なら日本海の風景を写真に撮るのは不思議ではないだろうし、日本海沿岸の風景もけっこう似ているものだとは思うけれども、どうにも私の故郷の風景に酷似している。
思い切って「これって、沖泊(おきどまり)っていうウチの田舎の風景に似てるんですよ」と言うと、「えっ、でもその可能性ありますよ」と薫子さん。
うーん、でも赤崎から沖泊まではけっこう距離があるし、沖泊は松江市の中心から行くと大芦、加賀、野波、小波、多古といろいろな漁村の果てにあり、本州でも隠岐の島が最も近い行き止まりのような場所だから、なかなか人が撮影に行くようなところではない。ましてや他県の人が。


★塩谷定好「村の鳥瞰」(1925)(薫子さんに見せてもらった作品)
右の一番海側にあるのがうちの船小屋。
右★塩谷定好「漁村」(アサヒカメラ月例懸賞4部1等・1926年6月号掲載)。
本誌編集部(第1部)、東京写真研究会の秋山轍輔(第2部)、福原信三(第3部)、米谷紅浪(第4部)、淵上白陽(第5部)がそれぞれを担当。

 

 


◼︎塩谷定好、福原信三、植田正治

ナディッフでの「つゆの“もう”ひとしずく」展では資生堂の社長であり写真家でもあった福原信三の「松江風景(THE OLD TOWN OF MATSUE) 」(1935)という写真集の存在を知ったり、植田さんにも「松江」(1978)という写真集があることも知った。内科医であった佐野くんのお父さんが「松江」を持っており、私と同じ松江市和多見町生まれで幼稚園から高校までいっしょの学校に通い、近年は佐野くんとの仕事も多い世界的ギタリスト山本恭司くんも、お母さんが図書館か何かの廃棄本として持ち帰ってきたのが植田さんの「松江」だったため知っているという。高校時代にウチでいっしょに音楽を聴いたりギターを弾いたりしていた二人が、ともに植田さんの写真集を知っていることにもおどろいた。

灯台下暗しだが、塩谷定好、福原信三、植田正治と松江を取り巻く写真家のことが今更ながらに頭の中でぐるぐる回り出し、手に入る写真集などを探し始めたが、福原信三の「松江風景」はかなり高価になっており、おいそれと手に入れられるものではなかった。もちろん山陰放送という地元のテレビ局から出版された「松江」もかなり希少なものだった。(のちに薫子さんが青山のギャラリーに古書(5000円)ででていることを教えてくれ、早速お店に行って手に入れた。中の一ページには鼕行列という松江のお祭りの写真が大きく掲載されていた。それは知り合いというか、白潟小学校の二級上の先輩たちだった。小学校時代に遊びに行っていた和多見町の洋品店サトウのマサちゃんもいる。なぜか灘町の鼕行列に混じっている。
長い間絶版になっており、再版されれば良いのにと思っていた写真集「松江」は山陰放送開局60周年記念として2014年に復刊された。めでたし、めでたし。)


★植田正治「松江」(1978)より鼕(どう)行列
さて、そんな中で唯一手に入ったのが塩谷定好の「海鳴りの風景」(1984)だった。
その本で確認すると、「村の鳥瞰」と題された写真はまごうかたなき沖泊の写真だった。しかもウチの船小屋も写っている。潮の匂いで満たされた暗い小屋の中には網など舟道具がたくさん置いてあったのを覚えている。
私にとって「村の鳥瞰」のアングルは、松江から車で沖泊に帰る時、最後の一山を越え、ジェットコースターの一番高いところから急に海が見え「ああ、沖泊に帰ってきた」と実感するちょっと胸キュンの地点なのだ。しかし、塩谷さんは船でいらっしゃったのだろうから、そんな感慨は抱かれなかっただろう。船小屋などがミニチュアのように見えて面白かったのかもしれない。
(調べてみると、「アサヒカメラ」で一等をとった作品は「村の鳥瞰」ではなく船小屋のアップ写真「漁村」だった。 「アサヒカメラ」の創刊号は1926年4月号で、この号で「月例懸賞藝術寫眞」の公募があり締め切りは4月20日。編集部を含む5人の選者を応募者が選ぶことができるコンテストで、塩谷さんは浪華写真倶楽部の米谷紅浪を選んでいる。福原信三ではないのが残念だが、作風とか好みの関係だろうか? 米谷紅浪が山陰に近い大阪の人だったからだろうか?
米谷紅浪は「漁村。極めて大摑みな行方だが其割に無理がない漁村の感じも表はれて居るし、光の扱ひ方もなだらである。特に空と海の描冩が優れてゐる。そしてプリントも殆どピグメントに匹敵する程の味が出てゐた。」と選者として批評している。絵画的マチエールが得られるピグメント印画法のような効果が評価されたこのプリントは、応募された「寫眞はお返ししません」という規則のためオリジナルを見ることがかなわないのが残念だ。ちなみに、塩谷さんはこの時第5部の淵上白陽にも応募しており、「静物」は選外佳作となっている。)

そして、この写真集「海鳴りの風景」の「海水浴場小景」(1929年)という少女が浜辺でブランコを漕いでいる写真を見て思い出した。それは私の持っている「FOTOGRAFIA GIAPOPONESE DAL 1848 AD OGGI」というカタログの中で最も気に入った写真だったのだ。この本は1979年(昭和54年)に欧州主要都市12か所で巡回された「今日の日本の写真とその起源」展(細江英公、奈良原一高、植田正治、篠山紀信など日本を代表する写真家を欧州に紹介した展覧会)のカタログで、イタリア語だったから細かくチェックしなかったけれども、ルキノ・ヴィスコンティの映画「ベニスに死す」を思わせるようなその砂浜の写真が、日本海であり、しかも鳥取の赤崎という海岸で撮られたものだとは思いもしなかった。それが塩谷定好という写真家の作品で、しかもその人が沖泊の写真を撮った人だったとは。

『つゆのひとしずく』のリリースに合わせて「出雲の風土と幻想芸術の世界を語る」という佐野史郎、小泉凡(小泉八雲曾孫)、巖谷國士(明治学院大学教授・文学部長)の三人による座談会が鳥取の植田正治写真美術館で8月5日に開かれた。それと同時期に帰松した折りに、松江南高校時代の同級生であり当時の写真部の部長、そして佐野くんと共にバンド仲間でもある小豆沢茂くんのところに顔を出した。(ちなみに佐野くんがギター・ヴォーカル、小豆沢くんがリードギター、私はベース)
小豆沢くんは高校時代に森山大道の「桜花」が掲載された「カメラ毎日」(1972年6月)を突然持ってきて見せてくれたことがある。これは本当に衝撃的な作品だった。(後年、ツァイト・フォトサロンの引き出しの中にあった「桜花」のオリジナルプリントを偶然発見したけれども、荒れた感じの雑誌の印刷の方が強烈だった。)
高校時代に植田正治さんが森山さんを招聘して島根県民会館でトークイヴェントがおこなった時も、小豆沢くんと二人で出かけた。なぜか小豆沢くんは薄暗いホールの中でアルミの弁当箱を広げはじめ、周りにあの弁当特有の匂いが充満したのを覚えている。こんな時、こんなところで弁当食べるかねと思ったが、いつもマイペースな小豆沢くんだ、仕方ない。そんな中で、森山さんに「写真はただの記録であるのか、はたまた芸術であり得るのか?」といったことを高校生の分際で質問したのが私だった。小豆沢くんには「エカ(私の愛称)らしい質問だな」と一笑されたけれども、意を決して質問するほど「桜花」のショックは大きかったのだ。

閑話休題。その小豆沢くんに、
「塩谷定好とか福原信三とか植田正治とか、松江を撮った写真がいろいろあるんだよ」
と言うと、小豆沢くんが、
「おお~、わしもちょうどそこのところを調べちょうとこだよ。」と驚いたように言った。しかし、驚いたのはこっちの方だ。いつものことながら、東京と松江と離れて住んでいながら、同時期に同じようなものに惹かれているのが不思議だ。小豆沢くんも「海鳴りの風景」だけは持っており、ひとしきり松江の写真の話で盛り上がった。

そして次の日、島根県立美術館の学芸員である蔦谷典子さんの計らいで、佐野くんや薫子さんとともに私や小豆沢くんも巨大な金庫のような作品倉庫の中の植田正治、福原信三、塩谷定好などのオリジナルプリントを見せてもらえることとあいなった。福原さんの小泉八雲邸の写真の光の当たり具合など、印刷物よりもくっきりとしているのも発見だったし、素晴らしいコレクション、お宝の山だった。島根県立美術館の写真に関する収集の質の高さには特筆すべきものがある。
昨日、小豆沢くんと話をして盛り上がっていたのに、次の日にその話題になっていた写真のオリジナルプリントを目の当たりにすることができるとは、夢のようだった。
翌日沖泊に戻り、「村の鳥瞰」と同じアングルから写真を撮り薫子さんにメールで送った。すると、次に薫子さんに会い塩谷定好の写真集を見せてもらった時に、僕が先日送った沖泊と同一アングルのプリントアウトを持って来ていた。そのショットは翌年の2007年に出版される「植田正治の世界」 (コロナ・ブックス)で使うために撮られたもののようだった。


★「植田正治の世界」より。植田正治による冬の沖泊。
左上が塩谷さんの「村の鳥瞰」と同じアングルで撮った沖泊。


◼︎祖父と塩谷定好さんーーMessage in a Bottle

この年(2006年12月26日)の年末、松江帰省の折に祖父に尋ねてみた。
「おじいちゃん、塩谷定好って知ってる? 沖泊の写真でアサヒカメラの一等をとって有名になった人」
「おお、塩谷定好(しおたにさだよし)、あれは偉いもんだ。山陰の写真界の一番のもんだ。」と祖父は塩谷さんを本名(さだよし)で呼んだ。「ていこう」はアーティストネームなのだ。1979年の「FOTOGRAFIA GIAPOPONESE DAL 1848 AD OGGI」の時もクレジットはまだSADAYOSHI SHIOTANIだった。
そして「お前に、塩谷さんの写真集をやったな?」ときた。
「ええっ、写真集?」薫子さんに見せてもらった写真集がウチにもあるのか?
「いや、貰ってないよ」
祖父は塩谷さんのことを知っているどころか、当時の写真集まで持っていた。
その写真集を探しに沖泊に行ってみたけれども、どこにも見当たらない。いろいろ尋ねてまわっているうちに、沖泊に住んでいる従兄弟がその写真集を見たことがあると教えてくれた。しかもサイン入りだったというのだ。どうしてサインまで入っているんだろう? しかし、もしそれが本当なら家宝ものだ。なんとしてでも探し出したい。
翌年(2007年)9月15日、松江の先にある瑪瑙の勾玉と温泉場として有名な玉造で祖父のちょっと前倒しの白寿のお祝いがあり、親戚一同が集まった。ちょうどいい機会なのでみんなに写真集のことを訊いてみた。すると、カメラ好きの大阪の叔父が沖泊の家で塩谷さんの写真集を見つけ、持ち帰っていたことがわかった。早速大阪から送ってもらった1975年発行の「塩谷定好名作集」(植田正治監修)には、祖父宛のサインと共に塩谷さんから送られた手紙やハガキなども一緒に入っていた。これは大発見だった。

その手紙などと一緒に1982年(昭和57年)3月9日付の朝日新聞の切り抜きが添えられており、そこには秋に西ドイツで開かれる世界最大の写真ショー「フォトキナ展」にエドワード・スタイケン、アンセル・アダムスといった世界の巨匠に混じって日本人として唯一36点の作品を出品するという塩谷さんの写真入りの記事があった。
手紙のやりとりを鑑みるに、どうやらこの記事を見た祖父が、家業のかまぼこを塩谷さんに送ったことから何度かやり取りがあったと推測される。そのお礼に写真集をいただいたようだ。塩谷さんからのハガキには「村の鳥瞰」のあの船小屋はまだありますか? との記述もある。やはり、あの船小屋が塩谷さんの琴線に触れたのかもしれない。
塩谷さんからの毛筆の手紙にはウサギの絵が描かれている便箋が含まれており、これがさすが塩谷定好、素晴らしい筆使いだ。これだけの絵心がなければ、「村の鳥瞰」を始め写真を絵画化したさまざまな名作は生まれなかっただろうと思わされた。

この年の大晦日、年末の帰省の折に、百歳近いためもう言っていることがなかなか聞き取れない祖父が、塩谷さんのことを書いたメモをしたためてくれた。それも解読がなかなか難しい走り書きだったけれども、以下がそれを書き起こしたものである。

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小川正

塩谷定好さんには一度も出会ったことがない。

沖泊の大谷川原(おたんがー)へ小舟でカナギ漁に行く途中、ビール瓶に紙切れが入っており、それを拾ってみると「この手紙を届けた方に、七つ穴の写真を差し上げます」と書いてあった。(七つ穴とは沖泊にいくつもある海岸の洞穴の総称)

塩谷さんが赤崎から沖泊を訪れた時(1925年)に、七つ穴の案内役をしたのは、川端(かわんはた)のじいさんか小川常太郎さんだったらしい。(1909年生まれの祖父はこのとき16歳)。
七つ穴より、沖泊のヅラダという地蔵さんのあった坂から撮った、昔の干物小屋の写真のほうが良かったようで、その写真は「アサヒカメラ」の一等をとった。
塩谷さんはイギリスはパール社の蛇腹のカメラや六桜舎のカメラで撮影していた。

私も写真をかじっており、東京の義兄(野津)に写真機を頼んだところ、バーレット単玉とフィルム10本を送ってくれた。村内に写真を知るものもなく、ひとり家の中で現像した。
塩谷さんはバーレット専門で、その写真はヨーロッパでも紹介され、渡欧もされた。塩谷さんの教えた写真の弟子は、山陰中にいるだろう。

私は昭和28年より松江でかまぼこ屋を開店し、塩谷さんにかまぼこを送ったお礼に、お手紙や写真集をいただいた。
亡くなられたときは、香典返しに奥さまから何かを送っていただいたが、それが何だったか失念した。
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以上のメモだった。
しかし、出だしのビール瓶の紙切れというのはなんなのだろう? まさか沖泊で拾ったビール瓶に塩谷さんの手紙が入っていたとでもいうのか? 1909年生まれの祖父が沖泊に住んでいたのは昭和13年(1938年)ぐらいまでなので、1925年に沖泊を撮影している塩谷さんが七つ穴の写真を撮っている可能性はあるけれども、さすがにそんな偶然はありえないだろう。しかも、赤崎と沖泊では潮の流れが逆なので、沖泊で流したものが赤崎にたどり着くことはあっても、その逆は考えられない。

ともあれ、このメモの内容は島根県立美術館の蔦谷さんや小豆沢くんに知らせておいた。「まさかとは思うけれども」とエクスキューズを入れながら。


◼︎ガラス瓶のメッセージーーMessage in a Bottle

翌年2008年の3月8日に小豆沢くんからメールがあった。
その内容は下記のようなものだった。
「佐野と県美に行って、塩谷さんのお孫さんに会いました。
小川かまぼこの事をしっとられました。
なんと塩谷さんがガラス瓶に手紙を入れて流したら、
おじいさんが拾って、返事を出したのがきっかけだって。
びっくりだよ」

ええっ、まさかとは思っていたけれど、本当に塩谷さんのMessage in a Bottleを祖父が拾っていたとは。これでビール瓶のところの謎が解けたが、沖泊の写真で有名になった塩谷さんが流したガラス瓶の手紙が、また沖泊に流れ着くとは、なんという偶然、縁なのだろう。

潮の流れ的には沖泊から赤崎に北上するはずで、赤崎からは流れてこないはずなのだが、後年、「塩谷定好写真記念館」(風情のある本当に素晴らしい写真記念館だ)を訪れた際に、塩谷さんのお孫さんである塩谷晋氏にお尋ねしたところ、塩谷さんは昭和3、4年(1928、9年)ごろ松江の古志原連隊の陸軍に所属(一般人軍役)されており、その頃に松江から流したのではないかとご教示いただいた。
松江から宍道湖や大橋川に流した場合、佐沱川に入って古浦海水浴場から日本海に出て、そこから沖泊に流れ着いたという可能性が高い。
そういえば、薫子さんに最初にガラス瓶の手紙の話をした時、佐陀川から流れたのではとその可能性を示唆されたのだが、塩谷さんが松江にいらっしゃったことがあるとは思わなかったので、可能性は低いと思い込んでいた。

ともあれ、昭和3、4年なら19とか20歳の祖父はまだ沖泊にいるので可能性としてはこの頃だろう。ガラス瓶のメッセージを拾いあげ、その旨塩谷さんにハガキなり手紙を書いたのだろうと推測される。アサヒカメラで沖泊の写真「漁村」が発表された1926年から2、3年後にまた沖泊から知らせが来るとは、塩谷さんも驚かれたのではないだろうか。
塩谷晋氏によれば、この時写真を送ったと思いますよとのこと。そんな塩谷さんのオリジナルプリントがあればこれこそまさに家宝になるのだが、それは未だに見つからない。
ともあれ、ガラス瓶の手紙を拾ってから50年以上たった1982年に祖父が新聞で塩谷さんの記事をたまたま目にし、また連絡したという、二つの世界大戦をまたいだ交流があったとは。(小川功




★DVD「つゆのひとしずく」


★「つゆの“もう”ひとしずく」展でのトークショーより。
音楽を担当した今は亡き加藤和彦さん(上)。
安珠さん(中)。金子隆一さん(下)。



★仲田薫子さん、佐野史郎、小川功(Photo:伊藤俊介)
















★福原信三「松江風景」(1935)


★植田正治「松江」(1978)



★塩谷定好「海鳴りの風景」(1984)
























★「FOTOGRAFIA GIAPOPONESE DAL 1848 AD OGGI」(1979)


★塩谷定好「海水浴場小景」(1929年)



















★2006年当時の沖泊















★祖父・小川正(2006年)


★「塩谷定好名作集」(1975年)



★祖父に宛てられた「塩谷定好名作集」のサイン



★塩谷さんから送られたハガキ



★便箋に描かれたウサギ


















★赤崎と沖泊の位置関係